「べき」から「したい」へ

どうも、すっかりとやなぎなぎさんのファンになりました、Lunakfgです。書いていきます。

 

 

何かするときの動機は外発的なものより内発的なもののほうがいい、ってのはいろんな所で言われています。そして私の経験則的に多分正しいです。

 

しかしながら、したいことだけやってればいい訳ではないですよね。やりたくないことを要求されたり、したいことのために我慢を強いられることも多くあります。外発的動機が増えるわけです。

 

 

そんなときに現れるのが我々の天敵「べき論」です。

 

「べき論」には2つの種類に分類できます。自分が自分に向ける「べき」と、他人から向けられる「べき」です。

 

自分が自分に向ける「べき」は諦めの表れです。

したくないけどやらなきゃならないから、「~すべきだ」って自分に言い聞かせているんです。

 

翻って他人からの「べき」は正しさの刃と言えましょう。

その正しさは発信者にとっての正しさであって、いつも受信者にとっての正しさとは一致しません。

一致しなければ、「は?なに言ってんの?」で終わりですが、厄介なのは、一致した場合です。この場合、この「べき」が自分を縛る力を持ってしまいます。

 

 

誰が発信した「べき」であっても、自分を縛っている間は外発的動機にしかなりません。

「べき論」はあくまで人を動かす力を持たず、従わせる規則としてしかいられません。

 

何かを為すときに規則に縛られたままでは、どうにもモチベーションが保たれません。途中で折れるか、惰性で続くかのどちらかでしょう。

 

どこかで内発的動機が生まれない限り、上手く事は運ばないでしょう。

 

じゃあ、内発的動機をどう生むか。

当然、「べき」が「したい」に変換出来れば最高ですが、それが出来ないからこそ「べき」のままなので、別な方法を考えましょうか。

 

私は、「したい」ではなく「やってみよう」への変換を試みることが多いです。

 

「べき」と言われる内容を分析して、従うにあたる利点を読み取る。その上で「やらなしゃーない」を「そういうことなら、いっちょやってみるか」へ変換して自分の中に落とし込みます。

この変換が出来るのなら、「べき」に従う理由が、正しさから利点の存在へ移るわけですから、内発的動機が生まれたと言えましょう。

 

ここまで読んで、なんや小手先の話かよ。と思った人、ちょっとだけでも試みて下さい。ほんの少しの心の持ち方でも大きな影響が得られることだってありますから。

 

因みに、この変換が出来なかった人。あなたは多分その分野向いてないので、「べき」を跳ね飛ばしてその分野から離れるのが得策だと思います。得手不得手はあって当然です。

 

 

ともあれ、内発的動機が湧き上がるのみならず、自力で作り出せるのは、頭が使える人の特権だったりします。上手く扱えるようになりたいものです。

 

ということで、『「べき」は「したい」や「やってみよう」に変換する』べきだ。という話でした。

 

 

 

 

最後まで読んでいただきありがとうございます。

次回の記事でまたお会いしましょう。

 

 

 

 

p.s

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